調べたところによると、私がH歯科商店に入って1年半後の昭和29年の春に、東北地方から東京の上野駅に向けて、集団就職列車の第1号が出発している。
ちょうど日本の戦後復興が本格化し、世にいう「神武景気」が始まる頃のことである。 そういうことを考えれば、私たちこそが、江戸時代から、いや、あるいはそのずっと前の時代から続いていた「丁稚奉公」という制度の最後の世代だったということができるわけだ。
時代の大きな区切り目に生きてきた自分の人生というものを、私は、こんなことからもしみじみと思い返すようになっている。 ちなみに、私かH歯科商店を辞めたのは、昭和31年の夏のことである。
私は最後まで丁稚の扱いだったが、H歯科商店では、それからしばらくして丁稚制度を止め、みんなを社員として待遇して、月給を払うようになったということだった。 まさに私は「最後の丁稚」としてあの戦後の時代を生きてきた人間だったのである。
私かH歯科商店に入店した昭和27年頃は、日本もまだまだ貧しくて、たとえ東京の中心部である日本橋の商家とはいえ、瓦葺きの屋根のところなどはほとんどなかった。 戦争が終わって10年も経っていない時代で、住宅事情が戦前の水準にまで復活していなかったのである。
もちろん、H歯科商店とて例外ではなく、木の皮でこしらえた粗末な屋根が、バラックのような家を覆っているだけだった。 私たち3人の丁稚にあてがわれていたのは、そんなバラックの1階の三畳ほどの和室だった。
と言っても、そこが私たちの純粋なプライベートルームというのではなく、夜のあいだだけは私たちの寝室だが、夜が明ければ、みんなで食事をとるダイニングルームになったり、昼間は仕事場に早変わりしたりする。 そんな部屋の使い方だった。

今の若い人たちには想像もつかないと思うが、当時は、小さな店舗を構えて商売しているところでは、1つの部屋を、仕事用とかプライベート用とかに分けることなく使っていたものだった。 たとえば、そこが床屋さんなら、客が自分の順番を待つあいだに暇つぶしで新聞を読んだり将棋をさしたりする小さな部屋が、夕方になって店が閉まると、卓袱台を置いて家族が食事する部屋になり、夜になれば、布団を敷き並べた家族の寝室に変わるのである。
そんなことがあたり前の時代だった。 H歯科商店もまた、まったく同じだった。
私たちの寝室は、同時に家族の食堂であり、仕事場でもあったのである。

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